[日本教について]イザヤ・ベンダサン(著), 山本 七平 (翻訳),

日本人は、実はすべからく「日本教徒」だった。
その日本人の本質たる「日本教」という教義に、非常に深く切り込んだ作品。
30年前の作品であるのにも関わらず、その切り口の鋭さは錆びない。
ちなみに、ユダヤ・ペンダサンが著者となっているが、実は真の著者は山本七平氏であるとのこと。
個人的に、ひさびさに非常に読み応えがあり、かつ難解な本でした。読破に一ヶ月。
というのも、この著者は非常に博識であり、また、古い本なので文法も古い。
また、30年前の自衛隊が出来たりした頃の時事問題を切り口に議論を始めていることもあり
当時の細かい事情がわからなければぴんとこない記述が多かったためです。
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内容についての説明は、こちらのサイトにお任せするとして
私が興味を持った言葉は
「日本人はみな天才的な政治の才能を持っている」
というものです。
つまり、日本人は言葉を口にした瞬間に、その言葉の持つ論理的な意味ではなく
その言葉が回りに及ぼす影響「のみ」を考慮して発言する、というのです。
これが出来ない人間は、いわゆる「空気を読めない人間」とよばれ、
輪からはずされる、というわけです。皆さんも心当たりがありませんか?
逆に、空気を読んで、また話し合いをちゃんとしようとする人は、「人間として」評価されます。
この「人間として」というのは、
日本では「日本教の教義をよく守った日本教徒として」という意味であるとも
記述されています。ここらへんはまだ自分にはピンとこないものではあるのですが。
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また、他にも面白かったのが、「天秤の世界」という概念です。
端的な言葉で言えば、日本人=日本教徒の内面世界には、0か1かのハッキリした
ものがなく、常に理想と現実がどこかでバランスをとって存在しているというのです。
そして、その支点には「人間」がいて、その「人間」は「自然」という台座に立っていると。
例えば、黒船が来て、これは必ず開国しなければならないという状態になったとき
必ず日本人のメンタリティはそこで踏みとどまるわけです。「攘夷」という形で。
「開国」しなければいけないという現実に強く反発するわけですね。バランスをとるために。
他の例としては「自衛隊は必要だ、しかし自衛隊は不要だといえる状態も必要だ」など。
つまり、日本人は、「人間」を支柱にして、
例えば「開国」という現実と「攘夷」という理想の矛盾を、平気で受け入れる
メンタリティがあるということです。
その証拠に、明治維新を成し遂げたのは、「攘夷」を引っ張っていた若者たちでした、
というのです。その若者たちの内面では、「攘夷」と「開国」の分銅が
それぞれ非常に重くのっかかってバランスをとっていたので、そういうことになったというのです。
そして、いつかその天秤の緊張状態は、全ての分銅が振り落とされることによって
「人間」が立っている「自然」に帰るというのですね。
例えば「国が滅びて山河あり」であるというわけです。
例えば、それが戦後の状態であるというのですね。
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まあ、自分なりに、内容を色々まとめてみましたが、まとまりません。
他にも、日本人には「他者」という第三者はなく、常に「お前」と「お前のお前」による
二人称によるコミュニケーションが行われるという言葉もありましたが、
私には、わかりやすい言葉での説明が難しいです。
でも、興味深い本でした。ちなみに今は絶版しています。