9.悪な冒険心


 眠そう、なんて思ったのは、この相手には初めてかもしれない。


 仕事があった日の夜に会う時、二人で並んでソファに座るのは、ほとんど習慣といっていい。大抵はローザがとつとつとその日にあったことを話し、それにトレイルが相槌を打つという形で時間を過ごす。互いを確認するような、どこか儀式めいた時間───今がまさに、その時間だった。
「トレイル?」
「、どうした?」
 いつものようにぽつぽつと今日の話をしていたローザだったが、何かの違和感を感じて何気なく、トレイルの顔を覗き込んだ。唐突なそれにも驚いた様子はなく、トレイルはなんでもないような顔をして、ローザの顔を見返してくる。
(? 気のせい、かしら)
 じっと、向けられた顔を見る。目はしっかりと開かれているし、声の調子にも特に変わったところは感じられない。動作が鈍いなどといったものも見受けられないのに───眠そう、と感じるのだ。
 首を傾げて時間を確認するも、まだそれほど時間は経っていない。普通に寝るにしても、まだ早い時間だ。けれど、一度感じた違和感をそのままにすることも出来なくて、無言で答えを促してくるトレイルに、ローザは気になるまま問い返していた。
「眠い?」
「………いや、」
 唐突とも呼べるローザの言葉に微かに目を瞠り、間を空けて返事が返ってくる。ただ驚いただけだろうか、それとも図星を指されてだろうか。区別がつかずに、重ねて聞く。
「本当に?」
「何故、そう思う?」
 訝るローザに、トレイルが愉快そうにそう聞いてくる。
「勘、かしら?」
 答えを持っていなかったローザは自分も不思議そうに首を傾げる。トレイルがその様子にくつくつと笑った。むう、と困ったようにローザは唇を曲げて、理由を探そうとトレイルに目を走らせる。
「特に何があったと言うわけではなくって………あえていうなら、雰囲気、かしら」
「雰囲気、か」
 ローザの言葉を反芻して、トレイルはローザに分からないくらい微かに、目を細めた。
 事実、トレイルは微かな眠気に誘われてはいた。ただ、耐えられないほどではなかったし、この程度ならば特に問題もなく行動できるため、自分の中の天秤がローザの話を聞く方に傾いただけだ。余り眠りを必要とする方ではないトレイルとしては、よほどのことがない限りローザとの時間を削る事はない。
 自分では完璧に隠したはずだった。この程度のことが隠せないなどといった事は今までになく、これ以上のものを隠して人と接することもある。一番多くの時間を過ごしている部下とて、指摘してきたことはない。あれは遠慮などする性格ではないため、気付いたらすぐさま指摘してくるだろうから、やはり、気付かれたことがあるとは考えにくい。
 そうすると、自分の気が無意識に緩んでいたか、あるいは、ローザが鋭いのか。
(ありえないことではないな)
 行き着いた思考に、トレイルは内心で納得のため息をついた。そもそも、ローザという存在がトレイルに緊張を強いる相手ではないから気を張る必要があるはずもなく、ローザが妙に鋭いのも今更なことだ。考えるまでもない、と結論を出して、トレイルは未だ頭を悩ませるローザを見下ろした。隣り合って座るこの体勢が嫌いなわけではないが、しかし、ローザがこちらの眠気に気付いた今を利用しない理由はない。
(………所詮、俺も俗物か)
 自嘲というよりは新鮮な思いを感じながら、トレイルは自分が思うままに動いた。
「やっぱり、雰囲気としか言いようが───っ、………トレイル!?」
 突然何かに太ももをくすぐられたと思ったら、トレイルの姿が横から消え、下から覗き込まれていた。所謂、膝枕、という状態で。
「なんだ?」
 平然と見上げてくるトレイルに、あ、とかう、とか意味のない言葉を呟きながら、ローザはおろおろと視線を泳がせた。
「こここの体勢、は?」
「眠いか、と問われたからな」
 寝させてくれるのかと、と明らかにローザをからかうような口調で言って、俯いたローザの顔を覗き込んでくる。違う、と否定したいのに、楽しそうなその顔に魅入られてしまって答えが出てこない。
 足の上に慣れない重みと温もりがある、それだけに留まらず、いつもは見下ろしてくる視線が下から見上げてくる。横になったことで僅かに黒髪が乱れてローザの足の上に広がり、薄い唇が満足そうに、妖艶な弧を描く。
 足を動かしたくてもできず、その視線から逃げたいのに逃げられない。今までにない体勢に恥ずかしさが極限に達し、追い詰められたローザは、最終手段に出た。
 ───ぺちん
 トレイルの視界が暗くなり、目元を温もりが覆う。目元を手で覆われたトレイルは、その手に自分の手を重ねてくつくつと笑う。
「どうした?」
 何故そうしたのかを知りつつも聞きたくなるのは、こんな暴挙に出た相手の心情が手に取るように分かるからだ。トレイルの声に、びくり、と頭の下の足が震える。動揺から、とっさに動こうとしてできなかった、大方そのようなところだろうと当たりをつけて頭を横にずらす。真上を見る体勢からローザの方を向くように。その動きにあわせて手がついてくるのを楽しみながら、目を閉じる。
「とと、トレイル、眠いなら、やっぱり、ベッドで寝た方が、いいと思うのよ………っ!?」
 ねっ、と促すように声が降ってくるが、トレイルにここで動く気はなかった。付け加えるなら、このまま眠るつもりもなかった。考えた以上に心地のいいこの場所を手放すのはあまりにも惜しく、挑発するようににやりと笑ってみせる。
「随分、積極的だな?」
 ベッドに誘われたことを揶揄すると、手の平の向こうで絶句する気配を感じた。
「ち、違うのっ! ね、眠いんでしょう? 向こうの方がきっとよく眠れると思うの!」
「………ここでいい」
 こちらでも十分よく眠れる、との意味を込めてそれだけを答えれば、納得がいかなかったのか───あるいは、この状況を早くなんとかしたいと思ったのか、ローザはさらに言い募る。
「ここだと寒いしっ、羽織るものもないし、風邪引いちゃうかもでしょう!?」
「大丈夫だ」
 短く言い切りながら、空いた左手をローザの腰元に回し、そうして徐々に上へと動かす。辿りついた後頭部に手を回し、引き寄せて、唇に触れるだけのキスを落とした。力の抜けた目を覆う手を、重ねていた手でどかし、間近にある瞳に目元を緩ませる。

「───熱いぐらいだからな」

 言葉と同時に、頬に手を滑らせた。トレイルの手が触れるのとほぼ同時に、ローザの頬がみるみるうちに赤くなり、熱が上っていく。手の平の熱を心地よく感じながらローザの目を見つめ続けると、羞恥か、混乱か、ローザの目が潤んだ。
(………眠れそうには、ないな)
 急速に沸きあがった欲が、眠気を強引に押しのけるのを当然のように受け止めて、狼は、これから味わえるであろう極上の子羊を想って喉を鳴らした。



 果たして、なんのための体勢だっただろうか。そんなことを考えたのは、もう、夜も更けた頃。
 睡眠を勧めたはずの子羊がようやく眠りに落ちて、眠気を感じていたはずの狼が別の欲を満たした頃。




 


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