朝、瞼の裏に日の光を感じたローザは、本能が促すままにその瞼をゆっくりと持ち上げた。その下からは寝起きのぼんやりした目が覗き、徐々に焦点を結んでいく。だがそれも、吐息のかかるような距離にある端正な顔立ちを認識した瞬間、ローザの寝ぼけた頭は瞬時に覚醒を促された。
「…………っ」
声を上げなかったのは奇跡だった。上げそうになった声を必死に呑みこみ、ローザは跳ね上がった鼓動を宥めつつ、至近距離にあるトレイルの顔からそっと視線をはずした。頬が熱いのは、鏡がなくても分かる。
けれど、落ち着こうとして視線をそらした先にあったのは、少し乱れたシャツの襟元から覗く、男らしい喉仏や綺麗な鎖骨で。ローザはさらに顔を赤くしながら、おろおろと視線を彷徨わせた。
(お、落ち着かなきゃ、落ち着いて!)
視線の逃げ場がないことに気付いて、ローザはぎゅっと目を瞑る。そうすると、ばくばくと激しく鳴る心臓の音が、嫌でも耳に入ってくる。それだけではなく、さっきは気付かなかった、ローザの前髪にかかるトレイルの息や、腰の辺りにしっかりと回された腕など、意識してしまったら鼓動なんて、とても落ち着きを取り戻すどころではない。
しばらく緊張に身体を強張らせていたローザだったが、そのうち、寝たままのトレイルのことが気になりだした。そういえば、トレイルの寝顔など、ローザは今まで一度も見たことがないのだ。
恐る恐る、もう一度瞼を開く。再び視界に入る端正な顔立ちに頬を染めながらも、ローザはそっと、その寝顔に視線を走らせた。
ローザをいつも惑わせるあの目は、瞼の下に閉ざされている。その目が見えないトレイルの寝顔は、無防備かと思いきや、いつも以上の色気を以ってローザの目を奪った。
薄い唇は呼吸のために微かに開かれ、伏せられた睫はおそらく、女であるローザよりも長い。肌理の細かい肌、けれど女性的と感じるには鋭利な顔立ち。目元にかかる、少し乱れた前髪にさえ、色気が溢れているように見える。
こうしてみると、確かに端正な顔立ちではあるのだが、顔立ち自体が目立つのではないと分かる。客観的に顔立ちだけを見ることができたならば、おそらくローザの上司であるロイスの方が整っているだろう。それでも、ふとした拍子に目を惹くのはやはりトレイルだ。それは多分、ローザの感情を抜きにしても、変わらない。
例えるなら、ロイスのような綺麗さは美術の彫像のようなものだ。綺麗ではあるけれど、整いすぎて、どこか拒絶するような雰囲気を持っている。対してトレイルは、逆に人を誘い込むような、足を踏み入れれば抜け出せなくなるような、そんな雰囲気だ。まるで、天使と悪魔。危険な香り、などという言葉ではくくりきれないような、妖艶な肉食獣。
ローザはトレイルを起こさないように、そっと、手の平をトレイルの頬に添える。寝ているトレイルの頬は外気に触れて微かに冷えていた。人差し指で軽く頬を撫でて、それから少しだけ首を伸ばすとゆっくりと顔を傾けた。なぜかは分からない、ローザ自身も認識せぬままに、ローザはトレイルの唇に口付けていた。
まるで、悪魔に魅入られたように。
ただ唇の表面が触れ合うだけのような軽いキスだったけれど、その一瞬はとても長く、ローザには感じられた。
そっと顔を離し、同時に目を開けたローザは、見上げた先の目がまだ閉じられたままなのを見て、ぽつりと呟いた。
「………すき………」
当然のことながら、眠っている男には届くはずのない言葉。ローザは、反応の返ってこないトレイルに、幸せなような淋しいような奇妙な思いを抱きながら、はにかむように笑った。頬に添えたままの手を耳の上辺りに滑らせて、髪を梳く。撫でるように後頭部まで指を滑らせたローザは、いつもは絶対にできない分を補うように、もう一度、トレイルに口付けていた。
二度目の口付けは、すぐに離した。たとえ、トレイルが起きていないとしても、一人でこんな甘いことをしている自分が恥ずかしくなってきたのだ。けれど、唇を離しながら閉じていた瞳を開き、トレイルを見上げたローザは、その両の瞳がしっかりとした眼差しで見下ろしているのに気付くと、先程感じた以上の羞恥に見舞われて一気に頬に熱を上らせた。
「な、え、ど、どうして………!?」
確かに、寝ていたはずだ。そう言いたいのに、言葉が出てこない。余りの驚きに目を見開いていたローザは、離れたはずのトレイルの唇が再び間近に迫ってくるのを、ただ呆然と見ていた。
気がついたときには、再び唇が重ねられていた。ローザがしていた軽い口付けではなくて、ローザを翻弄する、深い口付けだ。
ただでさえ回らない寝起きの頭に、だんだんと霞がかかっていく。自分が今何をされているのかすらもう認識できずに、ローザはただ、手に触れるトレイルのシャツを握り締めた。
「…………っは、あ」
長い長い口付けの後、ようやく唇が解放されて、ローザは本能のままに荒い息をつく。目を開けることすら億劫で、閉じたまま、手の中のシャツを握り締めていると、不意に、とんっと向かい合わせになっていた肩を押され、仰向けに倒された。不思議に思って見上げると、顔の両脇につかれた手。見上げた先には、僅かに逆光になったトレイルの顔がある。
見下ろしてくるトレイルの顔は無表情に近かったが、ローザは不思議と、それが恐いとは思わなかった。まだ動かしにくい手を伸ばし、再びトレイルの頬に添えた。
「トレイル………?」
「ローザ」
見下ろすトレイルが、淡々とした声でローザを呼ぶ。答えようとローザが口を開こうとすると、先を制して、トレイルが徐に顔を寄せてくる。
「言っておくが、俺は聖人君子ではない」
「………? うん」
奇妙なことを言い出したトレイルに、ローザはぼんやりとした思考のままでこっくりと頷く。目の前にあるトレイルの目が、すっと眇められた。
「十二時を過ぎて、逃げられると思うなよ」
───夜の魔法がとけた、シンデレラ。
音もなく唇だけでそう囁いたトレイルの、形のいい唇が動くのをただ呆然と見ていたローザだったが、不意に、妙な危機感を抱いた。そもそも、トレイルの腕に囲われるようなこの体勢。なにか、自分はとんでもないことをしでかしているような───。
ローザが気付いたのは、数秒遅かった。
端正な口角が上がり、無表情が妖艶な笑みへと切り替わる。獰猛な肉食獣は、不釣合いな朝日を背に大事な獲物へと牙を向ける。
今だ夢うつつを漂っていた子羊は、このあと飢えた狼を満足させるための餌食とされた。
────狼にとっての朝が、理性より本能の勝る時間だと言うことにローザが気付く日は、まだ、遠い。