6.影る牽制 05

(任務完了です)
 耳元のスピーカーから漏れた部下の囁き声に、トレイルは対のマイクである腕時計のスイッチをいれ、コツリと一度爪先で叩いた。了解の印だ。スピーカーの向こう側から、当てこすりのように苦い口調が続く。
(………いろいろと、すいませんでした)
 口調のわりに、珍しく殊勝な言葉だと、トレイルは胸中で含み笑いする。頷く代わりに再びコツコツ、と二度音をさせ、通信を切る。
 ───部下である男が新人に話した内容は、半分が正解で、半分が嘘だ。空想の敵は大きければ大きいほど、立ち向かう気力を失わせる。勿論、逆効果なときもあることにはあるが、今回は、ローザ自身が決定的な打撃を与えた上での戦略。恋敵だけならともかく、本人にもその気がないとしっかり実感させた後の引き込みだ。成功してもらわなければ困る。
 新人がローザに惚れると、何も確信していたわけではない。部下の動向や心情には確かに目を配るが、役に立つかどうかも分からない新人の、それも個人的な分野のことまで感知したりは普通、しない。トレイルが今回の新人について気付いたのはたったの二つ。一つは、立ち回りが器用だということ、そして、性格的にローザが気に入りそうだということだけだ。そう、トレイルが目を向けているのは、新人ではなくローザの動向だ。だからこそ、今回のことに気付いた。
 真実はこんなにも単純だ。それを複雑にしたのは、新人の思い込みと、部下のこじつけだろう。
(あれにも、刺激があったほうがいいだろうな)
 そもそも、今回のことを仕組んだのは、部下の男の気が散っていたからだ。トレイルの右腕ともされる彼は、トレイル自らが組織のトップに立つのと同時に引き上げた男で、優秀ではあるのだが、その地位に着くには少々若すぎるのだった。トレイル自身もそうであるのだが、トップである彼にそんな言葉を吐こうものなら首が飛ぶ。おそらくそのしわ寄せもあるのだろう、部下に掛かる声は、あからさまではないものの根強く残っていた。
 男自身にも自覚があり、苛立ってはいたようだが、それでも煩い周囲と自分に折り合いをつけて───時折叩き折ったりもしながら───いると思っていたのだが、先日、トレイルの代わりに向かわせた先で、どうやらそこを見事に刺激されたらしい。男にしては珍しく、私情を多分に挟んでいたと報告を聞いた。
 仕事はいつも通りの出来ではあったが、相手方に何も支障が残らなかったとは考えにくかった。しかし、それを上司が指摘するまでもなく、男は既に自覚している。自覚しても、どうしようもないものというのはあるだろう。優秀であるがゆえに、どこか袋小路に陥っているようにも見えた。
 そうすると、小回りの利く新人は配置には最適だと、実行した。ただ、それが予想以上の成果を連れて、トレイルの元に戻ってきただけだ。幸運を連れてきたのは、何も知らないはずの、一匹の子羊。
 目の前のローザが目を輝かせてパスタを食べるのを見て、トレイルは気持ちのままに笑んだ。気づいたローザが、頬を赤らめる。
「な、何?」
 用心深そうに恐る恐るといった様子。藪を突いて、蛇をださぬよう。心掛けは立派だが、今回は見事に薮蛇だ。素直に零した笑みを疑われるのは心外。姫君には少々仕置きが必要だろう。内心の考えが表情に出たのか、ローザがぴくん、と微かに肩を震わせた。
「………いや、」
 言いさして、トレイルは少しだけ口の端を吊り上げる。思ったことをそのまま告げても構わないが、それでは面白くない。中途半端に言葉を区切ったトレイルに、案の定、目の前のローザは何かを深読みして、食いついてきた。
「べ、別にそのっ、食い意地がはっているわけじゃないんだからっ! た、ただちょっと、ちょっとね、おいしいなって………っ」
 方向のずれた深読みに、思わず素の笑みがこぼれる。それをからかわれたと思ったのか、ローザは頬を赤らめたままむすっとした顔をする。突き出された唇が、まるでキスを強請っているように見えるのは、自分だけだろうか。慣れた衝動を押し隠し、トレイルは相槌を打つ。
「そうか」
 答えて、付け加える。
「それは、よかった」
 言葉は、紛れもなく本心。目を輝かせておいしそうに物を食べる姿は、見ていて楽しく、また誘ったこちら側としても嬉しい。と、トレイルは思っているが、ローザは簡単には信じていないらしい。無論、そう思うように会話を流しているのもあるが。
「信じてないでしょう! だって、本当においしいんだから!」
 パスタを食べ終わって言い放つと同時に、失礼します、と声と共にカーテンが揺れ、ローザが最後に頼んだパフェが届く。店員はローザに嬉しげに微笑みかけ、ローザは叫んだ言葉に赤面する。くっ、と喉奥で笑ったトレイルは、開いたカーテンの向こう、遠くにちらりと覗いた顔に、そのままの顔で視線を投げた。

 ───こちらを伺っていたのであろう男の、息を呑む音が、確かに聞こえた。

 一瞬───時間にして数秒、視線が絡んで、揺れたカーテンが視界を遮る。それを確認して、トレイルはローザに視線を戻した。ローザは新しくきたパフェにご執心のようで、真剣な顔でなんとか形を崩さないように上のクリームをすくっている。
「甘いのとかおいしすぎるのって、絶対に罪よね。誘惑とかひどいのよ。疲れた日は特に甘いものが食べたくなるのに、あんまり食べ過ぎるのはよくないって、少しひどいと思うの。でも、こうして久しぶりに食べるのも、悪くないと思うのよね………」
 そう言いながら、クリームの上に乗っていたイチゴを摘んで齧る。心底幸せそうなその表情に、仕置きしようと思っていた心が、急速に萎えていく。拗ねたような顔も、涙目で睨んでくる顔も好きだが、やはりこうして幸せそうな顔をしているのが一番───そう、愛しいと、思う。
「気に入ったか?」
 至福の表情を浮かべさせているのがパフェであるのが些か気になるところではあるが、これよりももっといい顔を知っているため、トレイルは薄く笑みを浮かべるに留める。ローザは嬉しそうに頷いた後、ふと、手に持っていたスプーンでクリームをすくうと、トレイルに向かって差し出した。
「一口、どう?」
 尋ねる顔は純粋で、なんの裏もない好意のみで行われたのだと分かっているが、当然のことながら、無防備に差し出されたものをそのまま返すなどということはできるはずもない。ためらいもなく細い手首を引き寄せて、そのまま口に入れた。クリームの甘さと冷たさが、舌の上に広がっていく。ちら、と視線のみで様子を伺えば、ローザは頬を染めて硬直していた。
 スプーンを口から離し、ローザの視線が唇を追うのを伺いながら、ぺろり、と挑戦的に舐めて見せる。びく、とその肩が揺れた。
「あ、えっと、その………お、おいしかった?」
 動揺しつつも、なんとかそれを隠そうとするローザに、トレイルは笑いかけ───掴んでいた手首を手前に引き寄せ、伸ばした右腕で小さな後頭部を引き寄せる。クリームよりも余程甘いローザの唇を、貪るようにして奪った。
「………っ!?」
 動揺も、悲鳴も、全て飲み込む。名前を呼んだらしいくぐもった音すら奪うように口づけ、未だ掴んだままの手首を親指で撫ぜる。ひどく至近距離で、ローザの瞼が力尽きたように閉じられるのが感じられた。
 永遠のようにも、一瞬のようにも感じられる、奇妙な空白。
 トレイルは十分味わい尽くしてから、ようやく口付けを解いた。息苦しさからだろうか、ローザの潤んだ瞳がじっとトレイルの行動を追いかけてくる。このまま手放すには、余りにも惜しい。
(───午後の予定は変更だな)
 新人に笑いかけるのも、仕事の合間に話すのも許した。元々の目的は綺麗に片付き、例の新人は特に手を下すこともなく無事に引き入れ終わり、後は組織の雑務が残るのみ。ローザはこの後まだ昼休みが残っているし、自分の都合さえつければ特に問題はない。
(褒美は、貰って当然だろう)
 狼は、この後の最高級のデザートを思って、にやりと笑った。




   


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