5.密かな誘惑

 なんということもない、休日の午後。
 ローザは淹れたての紅茶を片手に、テーブルに置いてあったリモコンを手に取った。部屋の片隅に向けてスイッチを押すと、ぱちりとテレビがつく。特に何かが見たかったわけではなく、単に暇を潰したかっただけなので、ローザは紅茶を啜りながらぱちぱちとチャンネルを変え、何か面白いものがないかと探していて────。
「あ」
 付けられた画面を、ローザは凝視した。

『今日、一緒にいたやつ、誰なんだよ』
 恋人役らしき男性が、女性の手首を捕まえている。女性はこちらをちらりと見て、また景色へと視線を戻した。
『会社の同僚の人よ』
『………っ、会社の同僚と、あんなに見詰め合うのか!?』
 男性が思い余ったように女性の肩を掴んだ。女性が微かに痛そうに顔をしかめる。それからふっと感情の見えない目で男性を見上げた。
『………どうして、貴方がそんなことを気にするの?』
 ぐっと、男性が言葉に詰ったように見えた。それを見て、女性が唇を噛んで俯いた。
『貴方だって、この間可愛い女の子と歩いていたじゃない』
 女性の言葉に、男性は驚いたように目を見張って────それから、嬉しそうな泣きたいような、そんな複雑な顔をする。
『あれは、ただの同級生だよ』
『随分、お似合いのカップルだったわね』
『嫉妬してくれた?』
 男性が、今度ははっきりと嬉しそうな顔になる。女性はそれを見て、頬を微かに赤く染め、軽く俯く。それに気付いた男性が、さらに嬉しそうな顔をしたのには気付いていないようだった。
『………別に、』
 ぎゅっと抱きしめられて、女性の言葉がふっと途切れる。男性は、感極まったようにぎゅうぎゅうと女性を抱きしめた。
『ちょ、苦し………』
『愛してるっ』
『な、何よ、急に………っ』
 狼狽したような声を上げる女性に構わず、男性は女性の髪に頬を寄せる。腕の中の女性はもう完全に赤くなって、そろり、そろりと男性の背に手を回した。
『………私も、愛してる』
 画面がアップになって、女性がそう囁く────。

「………嫉妬」
 掛けていたソファから身を乗り出しつつ、ローザはぽつりとそう呟いた。ぐるぐると、その一つの単語が頭の中を巡る。
(トレイルも、嫉妬する?)
 嫉妬したら、気持ちを聞かせてくれるだろうか。
 そう考えてしまって、ローザはぷるぷると頭を振った。ドラマの中では、確かに、嫉妬で上手くいったのかもしれない。けれど、嫉妬という感情を抱いている間というのは、決して気持ちのいいことではないのだ。
 以前、自分が抱いたことのある気持ちを思い出して、ローザはクッションに顔を埋めた。そもそも、トレイルが余りにも格好いいからいけないのだ、とむくれ、そんなことを考えている自分に赤面する。クッションから伝わってくる熱が、ローザの頬の熱さを示しているようで、ローザはさらに顔をうずめて唸った。
 そうして、その日は特に何事もなく過ぎていった。




 そうして明けた平日。ローザは上司であるロイスと共に、珍しく社用で外を歩いていた。もともと余り社外に出ることのない二人だが、今日はどうしても出なくてはならない事態だったのだ。といっても、大事な用があるのはロイスだけで、ローザはその補佐でしかないのだけれども。
「………ボス、その、大丈夫ですか」
 相手方との話し合いを無事に終えたその帰り。不機嫌な上司を見上げて、ローザは心配げに尋ねる。無事に、とは言っても、それはあくまでも仕事面の話だ。
 ローザは今まであまり考えたことはなかったのだが、ロイスの地位というのはその年齢で考えると異例の事態であるらしい。つまりは若すぎる、ということで、今日は相手方に散々馬鹿にされたのである。勿論、それはロイスを舐めてかかっていた最初の方だけで、後は次々と纏められる案件に相手方は真っ青になって低姿勢になったのだが、それまでに言われた内容はローザでさえ眉をひそめたくなるようなものだった。
「気にしていない」
 見上げたロイスはすぱっとそう言い切って、スタスタと先に歩いて行ってしまおうとする。ローザは小走りでその背中を追いかけながら、胸中でため息をついた。
(コネって言うのは、言いすぎよね………)
 ロイスの仕事量は、ローザも目を見張る量だ。それを、何も知らない人間に無能呼ばわりされるのは言語道断である。ローザだって、ロイスの仕事量を知っているからこそ、無茶だろうと思える量を与えられても愚痴を言いつつこなせるのだ。
 なにか言葉を掛けたいとは思うのだが、なかなか、言葉が思いつかない。
 思考の海にどっぷりとはまり込んでいたローザは、隣の上司が赤信号で止まったことにも気付かず、そのまま道路へと足を踏み出していた。───スピードを出した車が、向かってくるところに。
「ローザ!!」
 驚いたのは、隣に立っていたロイスである。思わず腕を伸ばし、はっと我に返った表情を見せた部下を引き寄せる。突然の事態に対処できなかったローザは足を縺れさせ、そのまま、ロイスの腕の中に倒れこんでいた。
「………の、馬鹿! 何をぼんやりしている!!」
 間一髪で車道から助け出されたローザは、目をぱちぱちと瞬かせてロイスを見上げた。次に、自分の置かれている状況を思い出したのか、ぎょっとしたような表情を見せた。
「す、すいません、ボス」
 慌てたように体勢を整え、自分の足でしっかりと立ったのを見届けてから、ロイスは腰を支えていた手を離した。ローザは自分のうかつさに、穴に埋まりたくなる。
「す、すいません、本当に………」
 ため息をついた上司におずおずとそう言うと、くしゃりと髪をかき混ぜられた。
「………次から、気をつけろ」
「りょ、了解です、ボス!」
 ぴしっと敬礼したローザをちらりと見、ロイスは青になった信号を渡り始めながら、そっと、交差点の向こう側へと視線を遣った。そこに、他の一般人から一つ浮いた男が、面白そうな表情を浮かべてこちらを見ている。
 再度ロイスがついたため息の意味を知らず、また、恋人である男の存在に気付かなかった部下に、ロイスはこれからのことを思って、同情と諦念の視線を送った。




 昼間に妙なハプニングが起こったものの、それからは何事もなく仕事を終えたローザは、少し早めに帰途についていた。玄関前でふと何気なく腕時計を見遣れば、まだ六時にもなっておらず、いつもより早く返って来れたことに気分が上昇する。
   楽しげに玄関の鍵をさしてドアを開こうとしたローザだったが、ドアはぴくりとも動かない。まさか鍵を開けっ放しにしていったのだろうかと少々慌てたローザだったが、開けた先、廊下の向こうのソファに見慣れた後姿が見えて、ローザはほっとした。
「トレイル」
 名前を呼べば、トレイルが首だけでこちらを振り返った。いてくれたのが嬉しくて、ぱたぱたと駆け寄ったローザだったが、近付いても何も言わないトレイルに首を傾げた。
「トレイル?」
 なんだ、と言うように目だけが向けられる。もともとトレイルはよく話すほうではないけれど、今日は特に無口だ。首を傾げながら、ひとまず着替えに行こうと隣室に向かおうとしたローザの手首を、トレイルがすばやく後ろから捕まえた。
「きゃっ!?」
 後ろから手を引かれれば、転んでしまうのは当たり前のことで。
 ローザが横向きに倒れるのを、トレイルが綺麗に方向修正したために、ローザはソファの横についた低めの手すりに膝裏を引っ掛け、トレイルの膝の上に腰を下ろす形になってしまった。座り込む直前でトレイルが身体を支えたため、そうたいした勢いで座り込んだわけではないが、場所が場所だけに、ローザは恥ずかしくなって逃れようともがいた。しかし、まんまと子羊を抱え込んだ狼が、そうやすやすと獲物を逃すわけはない。
「ローザ」
 低めの声で名前を呼ばれて、ローザはおずおずと下からトレイルを見上げた。トレイルがまっすぐに自分を見下ろしている。その瞳の中に、見たことのない感情が揺れている気がして、気がつけば、ローザは片手を伸ばしてトレイルの頬に添えていた。
「今日、一緒にいた男は誰だ?」
 唐突にそう聞かれて、ローザは戸惑った。トレイルの一緒にいた、と言うのが誰のことか分からなかったのだ。
「………えっと、ボスのこと?」
 いつも身近にいる人物、しかも男と言えば、ロイスくらいだ。そう思って言ったのだが、トレイルはそこで、微かな笑みを浮かべた。それは、決していいものではなく───そう、冷笑と呼べる類のものだった。整った顔立ちがそういった笑みを浮かべると、随分と恐く感じる。その笑みを間近で見たローザは、身体を強張らせた。そうしてようやく、トレイルが怒っているのだと気付く。
「と、トレ」
「随分と、仲がよさそうだったな」
 名前を呼ぶのを途中で遮られ、しかも奇妙なことを言われる。トレイルが何故怒っているのかが全くわからずにローザは身を縮こまらせた。
「仲って………、そんなに、言うほど仲良しじゃないわよ?」
 上司とは常に言い合いばかりしている自覚のあるローザは、トレイルの言う「仲のいい上司と自分」の姿が思い浮かばずに困惑し、瞳を揺らした。そんなローザを、トレイルはじっと観察するように見ている。
「人前で、堂々と抱きついていたが?」
 言われ、記憶を探っていたローザはようやく、昼間のハプニングのことを思い出した。よくよく思い出してみれば、確かに、抱きついていたかもしれない。
「あ、あれは、」
「やけに近い距離だったな」
 なんだか、今日のトレイルは随分と意地悪な気がして、ローザは思わず唇を尖らせた。少しぐらい、話を聞いてくれてもいいのに───と思ったところで、ふと、これとどこか似たような場面に出くわしたことがあると気付いた。話を聞いてくれない態度、と言うよりも、トレイルの、言う台詞が────。
 「それ」に思い当たった瞬間、ローザは火を噴きそうなほど顔を赤くした。まさか、まさか、そんな。
(嫉妬、してくれてる?)
 まさか、という思いが先に立って、なかなか素直に期待ができない。けれど、期待する心は止められない。上目でトレイルの様子をこっそりと伺いながら、ローザは昼間のことを説明してみる。
「あれはっ、私が赤信号に気付かずに渡ってしまいそうになって………ボスが、止めてくれただけよ」
 言いながら、トレイルが安堵の表情を浮かべるのをこっそりと待っていたローザだったが、トレイルの表情は一向に変わらない。ローザは次第に、不安を感じ始めた。
「本当に、それだけか?」
 さらには、追い討ちを掛けるようにそう問われて、ローザは頭が真っ白になった。まるで、ローザを突き放すような言葉。ローザは知らず、泣きそうに顔を歪めて、俯いた。
「好きなんじゃないのか?」
 しかしトレイルに、………好きな人にそう言われて、ローザはついに、目の端に涙をためながら叫んだ。


「私が好きなのは、トレイルだけよ!」


 叫んだ瞬間、顔を上げさせられ、貪るように口付けられた。何が起こったのかまったく理解できないローザだったが、次第に、頭がぼうっと霞み始める。ようやく解放されたと思えば、息苦しさに零れた涙にもキスされて、ローザはぎゅっと目を瞑った。
 トレイルが微かに笑った気配がした。目を開ければそこに、いつも通りの笑みを浮かべるトレイルがいる。
「………俺もだ」
 そう、囁かれた気がした。
 けれどその台詞は、溶けきったローザの頭の中に残るほどではなく、後は全て、なし崩しだった。




 意地が悪いとは、自覚している。全てを知りながらも、ただその一言が聞きたくて、自分を抑えられなくなった。流れた涙がもっと見たくて、自分の言葉に心を動かす恋人を知りたくてさらに冷たくする自分は、まるで子供のようだ。
「運が悪かったと、諦めろ」
 性質が悪い自分に捕まったのは、心を惹いたローザが悪い。自分勝手な言葉を呟いて額にキスを落としたトレイルへ、それでも、ローザは微笑む。その笑みが、より深く狼を捕らえるのだとは、気付かぬままで。
 胸の奥底に燻る嫉妬心さえ、ローザがもたらしたものであるならば、許容できる。
 だからといって、そのまま素直に許すと思ったら、大間違いだ。

 諦めろ、と、狼は優しく、微笑んだ。




 


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