10.は祝福と舞った


 体がだるかった。
 本当は、それだけじゃないことを知っている。
 ………重かったのは、これから知るであろう、現実を恐れた自分の心。



 額に触れるか触れないかの柔らかい感触が気持ちよくて、シェドはふるりと瞼を振るわせる。髪を梳かれているのだ、と気づいたのはそのすぐ後で、目を開けるのが急に怖くなった。
 誰が触れているのかを想像するのは、そう難しいことではなかった。
『クォルファの母親には、顔面にひどい傷跡がある』
 そう言ったダランの言葉が瞬時に蘇る。だから余計に、目を開けるのが怖くなる。
「シェド………気づいたのか」
 ふいに掛けられた声はやはり予想したとおりのもので、シェドは心臓が跳ねるのを感じる。
 会いたい、姿が見たい、でも、………守ると宣言したのに何もできなかった自分を確認するのが怖い。
 軽蔑の色は浮かべていないことは、声で分かった。でも、だからといって何もできなかったのに、あの優しい瞳で見つめられるのは嫌だと思った。
 きゅ、と一度目に力を入れてから、恐る恐る、瞼を押し上げた。寝起きの少しぼんやりした視界の中に、クォルファが優しげに微笑んでいる。その顔には、恐れていた傷はない。
「せんぱいは………、だいじょうぶ、なの?」
 まるで幼子のような問いかけになってしまってシェドは軽く顔を赤くしたが、クォルファはその問いにきょとん、と目を丸くした。
「シルフを呼んでくれただろう?」
「………けがとか、してない?」
 シルフには、何も言っていない。呼んですぐに倒れてしまったから、その後ならば行動できたのかもしれないが、そうすると、あのときの獅子の攻撃は避けられなかったかもしれない。
 そこまで考えて、シェドは自分の手が温かいものに包まれているのに気づいた。軽く手を動かすと、気づいたのであろう、クォルファはゆっくりと手を動かして、シェドの手を、覗き込むその唇に押し当てた。
 一拍置いて、シェドの顔に血液が逆流する。押し当てられた唇が笑みを描くのが分かり、ますます顔が赤くしたが、けがをしていないかどうかを確認するまでは顔をそらすわけにはいかない。心配と、羞恥とが対抗しあって、シェドはおろおろと視線をさまよわせた。
「ありがとう。呼んでくれたおかげで、かすり傷で済んだよ」
「………本当に?」
 頷いて、クォルファはようやく唇を離して、シェドの髪を撫でていた方の手をシェドの目の前にかざす。その手の甲には、確かにクォルファの言うとおり、手首から指先に掛けて一筋、走っていた。
「幸いにも、毒のないものだったから、すぐに直るだろう」
 シェドはそれをじっと見た後、続いてクォルファの目を見た。黒い、澄んだ瞳は柔らかく弧を描いていて、ようやく、シェドはほっとして微笑み返した。
「よかった」
 安心すると、また、眠たくなってきた。うつらうつらし始めたシェドにクォルファは微かに笑って、その瞳に手をかざす。
「今はまだ、休むといい」
 おやすみ、シェド、とクォルファが言うのを、シェドは遠くで聞いていた。………そのため、後に騒動となる、次の一言を聞き逃した。
『我が、婚約者殿』
 波乱を知らずに、シェドはただ、柔らかな眠りの海に沈む。




 魔力の消耗は、シェドが目を覚ますまでの三日の間にあらかた回復し終わっていたらしい。逆を言えば、シェドは倒れてから三日も眠り続けていたのだ。
 回復した、という響きに合わず、シェドはそれからさらに三日、ずっと眠っていたせいで消耗した体を休める羽目になった。
 既に傷の治っていたクォルファに何故か介抱されつつ終えた三日目。悪友二人と、ダランが顔を見せる。
「よう、シェド。おめでとさん」
「………なんか、すごく久しぶりだね」
 いつものにやけたジクスの顔を見て、シェドの体から力が抜ける。その隣に立っていたザインがそれを見て薄く笑った。
「まあ、蜜月を過ごしていたお前にとってはな」
「…………は?」
 なんか、妙な言葉を聞いた気がして、シェドは思わずぽかんと口を開けた。そのシェドの目の前で、二人はそれをどうとったのか、にやにやと笑いながらシェドをつつく。
「またまた、そう照れるなよ。浮気が本気になったところで、俺らの愛は変わらないぜ」
「強奪愛っていうのもありだしな。障害があるほうが燃える」
 未だに唖然とその言葉を聞いていたシェドは、唐突に、後ろから腰を引かれて誰かの腕に収まる。慣れ親しんだ体温は、クォルファしかいない。
「残念ながら、渡す気はさらさらないよ」
 頭に柔らかい感触が落ちて、シェドはようやく我に返った。けれど、未だに状況はよく理解できない。真正面では、クォルファの行動を見た男三人がしらけた表情でこちらを見ている。
「独身男に見せ付けるなんて、ひどいんじゃないですか、先輩」
「ふふ、羨ましいだろう?」
 ぎゅっとさらに強く抱きしめられて、シェドは顔を真っ赤にした。状況はともかく、この格好は恥ずかしすぎる。
「先輩、放してください!」
「先輩じゃないだろう、シェド」
 クォルファに向けていった言葉に、思わぬ横槍が入った。必死に後ろに捻っていた首を正面に戻すと、にや、と笑ったダランの顔がある。
「『僕は、クォルファが───』」
「っわああああぁっ!!!」
 ダランの口から出た僕、という呼称に首を捻っていたシェドは、続きそうになった言葉に目を剥いた。抱えられたまま慌てて正面のダランの口をふさごうと手を伸ばすが、後ろからクォルファに抱え込まれた状況ではシェドがどんなに手を伸ばしてもその口をふさげない。前につんのめるような状態になったシェドを、ダランが面白そうに見遣っている。
「な、な、な、こんなところでそんなこと言うなんてひどいですよ、先輩!」
「何言ってるんだ、本人がいるだろ。これ以上ない最高の場所だ」
「せせ、せめて二人きりのときに僕が、自分で───」
 こんなところで言われるのだけは勘弁して欲しい、と思ってこの場をやり過ごそうとしたシェドの言葉に、何故か、ダランが呆れたようにちらりとクォルファに視線を向けた。
「………本当だな、シェド?」
 ふいに後ろから囁かれて、シェドはびく、と背筋を震わせた。身長差のせいか、クォルファの吐息が上から、シェドの耳にかかる。
「なら、今度の休日、中庭で待っている」
 告げられた言葉に、シェドは全身を朱に染めた。恥ずかしさから断ろうと思うのに、何かを期待するようなその声に逆らえなくなる。口をパクパクと開け閉めしてなんとかこの場を乗り切ろうとしていたシェドは、そんなわけでまた、重要な言葉を聞き逃した。
「………クォルファがもう知ってる、っていうの、見事に気づいていないな」
「早くも尻に敷かれてるか?」
「尻に敷かれる、っていうか、愛される生贄って言うか」
 二人の世界からはじき出された男三人がそんなことを呟いていたことを知らないシェドは、ある意味幸運だったのかもしれない。



 そして、休日。シェドはあの中庭で、きょろきょろとクォルファの姿を探していた。
 色とりどりの花が咲き誇る中庭では、あの漆黒の髪はひどく目立つであろうと思っていたのに、今のシェドはクォルファを見つけられないでいた。
 花に囲まれて立つ時計を見遣れば、もうすぐ約束の時間になってしまう。そこまで広いわけでもない中庭で、どうして姿が見つけられないのだろうとシェドは焦って瞳を動かす。
 クォルファがこういったものに遅れないことは、なんとなく知っている。そもそも、もし遅れるのであれば、時間前までにダランなどに知らせるようにしてもらうはずだ。シェドは焦って、花壇に沿って走り始めた。
 中庭を十字に分ける中心まで走ったところで、ふいにぐい、と後ろに腕をひかれて、シェドは驚いて振り返った。体勢をくずしてもつれた体を、ベンチに座った誰かが抱き寄せる。シェドは黒髪の人の足を跨ぐように膝を付いていた。
「………っ、せん、」
「先輩じゃない、シェド」
「………え、と、クォル、ファ」
 いつもと違って、クォルファの顔が胸元にあるのは何故か妙に恥ずかしい。告白のときはいつも、周囲の目が自分に向いているような気がしているが、今日はさらに、それが強いような気がした。
「その………」
 この妙な体勢のままするのか、と思ってさらに恥ずかしくなる。口元を覆って、それでも消えない恥ずかしさに、一度、顔を隠すようにクォルファに抱きつく。
 クォルファが微かに笑う気配がした。それに肩の力が抜けた気がして、シェドはほっと息をつく。恥ずかしさもあったが、シェドは同時に、今までにないくらい緊張していた。想いを伝えることは、こんなにも、緊張するものだっただろうか、と過去を振り返ってみるものの、そういうときの記憶はあまり残っていない。
 きゅっと腕に力を込めてから、ゆっくりと離して、立ち上がった。さすがに、クォルファの上にまたがったままでは格好が付かない。
 右腕に持っていた花束を差し出して、シェドはクォルファの目を見つめた。
 クォルファはじっと、シェドを見返す。
 花束を支える左手が、緊張にじわりと汗ばんだ。
「その、僕は………クォル、ファが、好きです」
 一区切り、ついて、口を動かそうとしたクォルファを目で止めて、シェドは今までは言わなかった言葉を付け足した。
「だから、………僕と、付き合ってください」
 クォルファがシェドを見返す。永遠にも感じる時間の後に、その瞳が、ふわり、と緩んだ。
「───勿論、喜んで」
 クォルファが花束ごと、シェドを抱き寄せる。それに驚いたシェドが、慌てて花束を右へやったために、花がふわと二人の頭上に舞い上がる。
「ようやく、手に入れた」
 クォルファはそう囁いて、ゆっくりと、近づいたシェドにキスを落とした。


 舞い上がった花びらは、空に輝く光からの祝福を受け取って、黄金に煌いた。





 - 完 -


   
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