Extra.は容易く男を苛み


 この世の中で、不幸な人物の名を一人挙げよ。
 仮にそんな問いがあったとするならば、今この瞬間、ダラン=ラースガイゼンはまず間違いなく、己の名を真っ先に上げるだろう。

「………おのれ………」
 ダランは両手両足を地面につけ、がっくりと肩を落とした。姿だけを見るならば見事な落胆の図。だがしかし、その口から漏れた声は呪詛の如く低い。地面につかれた手にはぎりぎりと力が込められ、本人の心情をものの見事に表している。
 そんなダランの背には、小柄な影があった。まるい曲線を描いたふっくらとした頬、大きくて潤んだ瞳。その髪はまるで空から降りてきた天使のように見事な金髪で、白い産着によく映えている。背に白い羽があったとしても誰も驚かないような愛らしい赤ん坊が、ちょこんと乗っかっていた。
 下で呻くダランを不思議そうに覗き込む赤ん坊。誰が見ても、微笑ましいと感じる光景ではあるのだが───。
「げぼくぅ、うごかやいの?」
 舌足らずな、愛らしい声。
 誰もが耳を疑い、ついで幻聴だと首を振る。余りの赤ん坊の可愛さに脳がやられ、発音が怪しい言葉を聞き間違えたのだと。
 だがしかし、その赤ん坊の真下にいる男だけは、騙されるはずがなかった。いくら愛らしい容姿をしていようとも、もう騙されるものか。
 この赤ん坊は、まず間違いなく、ダランの人生を引っ掻き回したあの女の血を引いているのだから。




 従魔の血を引くラースガイゼン家は、総じて能力が高い。それが血のなせる業であるのかははっきりと解明されていないが、今のところの有力説であることは確かだ。一番の根拠としては、本家筋に近付けば近付くほど、能力の桁が変わってくるところだろう。
 ダランはこれでも、本家筋にかなり近いところにいる。父は当主の弟で、当主に他に兄弟はいない。今の状態で当主の継承権を考えるならば、おそらくクォルファ、父、そしてダラン、と、第三の継承権を持つ。だが、これほど近くても、ダランには自分と彼らとの格が違うことをはっきりと理解しいていた。
 ──── そんな、クォルファの、子ども。
 クォルファの子ども時代は、残念ながらダラン自身が子どもだったためにあまりよく覚えていない。ただ、あまり会ってはいないだろうと思っている。赤ん坊時代は男女の別がつきにくいし、クォルファも、自分の母親に育てられただろうと思うからだ。

 だから、直系の子どもがこんなに厄介だとは思っても見なかったのだ。

 見た目は赤ん坊だろうが、もう既に知能はおそらく十歳程度。自分がどんな環境にいるのか、どんな力を持っているのかをほぼ正確に理解しており、母親と父親には絶対服従。ちなみに、父親が含まれているのは本人の甘えと母親の怒りを避けるためだろう。
 それだけならば、ダランとてこんな苦労はしなかった。問題は、母親の価値観までそっくり受け継いでしまったことだ。
 勿論、むやみやたらと自分が上位にいることを言ったりはしない。両親の威を借りたり、力ずくでどうこう、というわけでもない。つまるところ、本人が“ここまでなら許してもらえるだろう”という見極めをし、その限界ぎりぎりまで───ようは、甘えているのだ。
 それが分かってしまうと、その見た目のせいもあってダランも強くは出られない。どれだけこの野郎、と思っても、何故か憎めないのである。変なところに気付いてしまった自分の脳が恨めしいが、おそらくこの赤ん坊はそこまで見越して、ダランを選んだのだ。
 そう、肝心の赤ん坊の両親が、今日は久しぶりのデートなのである。おそらくは、その愛らしい容姿でシェドを骨抜きにした赤ん坊に嫉妬したために、クォルファが強引にデートを計画したのだろう。行きがけのシェドの心配振りを目にすれば、それも納得できる理由ではあるが、問題は、赤ん坊に名指しされた己の悪運だ。
 断ろうと思えば、断れると思っていた。赤ん坊や子どもなど小さい者は苦手だったし、正直言って面倒だ。だが、クォルファはしっかりとそれを見越して、す、とあるものをダランに見せ付けたのである。
 それは、幼い頃、一度だけ女装した自分の姿を映した写真。
 いくらクォルファと似ていたと言われようとも、自分の姿ぐらいははっきり分かる。傍に、既に男装したクォルファが立っているならなおのことで。
『これ、なに、しやがった?』
 写真は、誰かの記憶を魔力で紙に写し取ったものだった。しかし、クォルファの記憶ではないはずだった。写真は、記憶が鮮明であることが必須条件だ。数日前などであればまだしも、ここまで時を遡るとなるとよほど興味のある記憶でない限り、こんなに精度のいいものは出来上がらないはずだ。クォルファは確かに面白がっていたが、ダランの姿をいちいち覚えておくほどではない。どこかの金華であれば話は別だろうが。
 写真の精度はほぼ完璧だった。まるで、肌の肌理すら分かりそうな姿に、思わず鳥肌が立つ。というより、こういった精度の高い写真が出来るということは、すなわち───。
『隣国、エディアの王子に協力してもらったものだよ。彼はずっと、この人に恋をしていたらしい』
 どん底に突き落とされる気持ちというのは、まさしくこんな感じだろうか。女装をしただけでも屈辱だったというのに、その上、姿をはっきりと覚えられ、あまつさえ見たこともない男に恋をされる。
『………っ』
 叫ばなかった自分を、褒めてやりたい。クォルファは絶句したダランに微笑み、ぴらぴらと紙をちらつかせた。
『これは、はっきりとお前だ。だが、今の私が王子に接触すれば、おそらく記憶が揺らぐだろうな。撮らせてもらった写真も、この二枚。………さて、お前はどうする?』
 選択肢を一つに絞っておいて、選ばせる外道。しかし、その一つを選ぶしか、ダランに明日はない。あの頃唯一クォルファと区別のできた父親になど知られようものなら、喜び勇んで過去を懐かしむに違いない。女装写真を見ながらのそれは、成人男性にとっては苦行以外の何物でもないだろう。
『分かった………』
 絶望しなかった自分は、実は偉いんじゃないかと、逃避した思考の中で思った。




「げぼくぅ?」
 いろいろと思い出して現実逃避に陥っていたダランを不審に思ったのか、赤ん坊がぐいぐいと手加なしにダランの髪を引っ張る。
「いっ、いてえ! おい、止めろ!!」
 両手両足をついた状態で片手を伸ばすものの、赤ん坊の握力は存外に強かった。目の端に涙が滲みそうになるのを懸命に堪え、足と腹筋で身体を支えて両手を伸ばす。背には赤ん坊。落とそうものなら後で何が起こるか分からないと懸命に姿勢を維持した。
「げぼくぅ、しゅしゅんでぇ」
 甘えたような声とは裏腹に、髪を引っ張る力が増す。ダランは痛みを堪えて、必死に動き出した。途端、きゃっきゃと楽しそうな声。手の力が緩んだのにほっとして、ダランは空いた手の甲で目の端を拭う。───と。
「キュアナ!!」
「パパぁ!」
 ダランの上で、赤ん坊───キュアナがよちっと立ち上がり、腕を伸ばす。そこへ、伸びてくる“パパ”の腕。しかしその前に、キュアナは隣から伸びてきた腕に確保されていた。
「………ママ?」
「いい子にしていた、キュアナ?」
 長い黒髪がさらりとキュアナの頬を撫でる。キュアナは、必死で“ママ”に頷き返す。
「うん! きゅあ、いい子にしてた!」
 キュアナの返事に、ママことクォルファは地に伏せたダランを見てくすくすと楽しそうに笑った。珍しく馬鹿にしたような笑いではない。隣で、キュアナを掻っ攫われたパパこと、シェドが淋しそうに自分の空の手を見つめている。
「それは良かった。楽しかった?」
「とってもぉ! ママ、きゅあ、だらんとけっこんしたい!」
「「はっ!?」」
 シェドとダランの声が綺麗に重なるも、キュアナもクォルファも気にしたそぶりもない。
「ふぅん、ダランと? 別に構わないよ。好きなだけ結婚しなさい。ただし、シェドは置いていくように」
「………!? クォルファ、何言ってるの!? キュアナ、パパは結婚なんて反対だから!」
 シェドが必死の形相でキュアナに説得を試みる。
「二歳児に必死になるやつがあるか」
 その頭を小突いてやれば、きっと睨まれた。あれから随分と月日が流れ、可愛い顔は整った優男の顔にはなったものの、こうして涙目になるとやはり可愛さの方が目立つ。おそらく性格的なものもあるに違いないと常日頃思っているが、さすがに口には出さない。
「ダラン先輩っ、うちの子をたらさないで下さい!」
「待て、お前、正気に戻れ!」
 風の魔術まで行使しようとしたシェドの腕をはがいじめにする。その間も、親子の会話は続いていた。
「パパもいっしょにつれていくの!」
「キュアナ、結婚って言うのは夫婦で暮らすものだよ。つまり、キュアナが結婚したら、パパは用済みなんだ」
「用済み!?」
 押さえ込んでいたシェドが、クォルファの言葉にショックを受けてへなへなと地面に崩れ落ちる。それを、クォルファが意地悪そうに見ているのに気付いたのはダランだ。
(キュアナに飛びついていったの、相当根に持ってるな………)
 額に手を当て、ため息をつく。
「やだぁ、そしたらきゅあ、パパと………っ」
「キュアナ?」
 にこりと笑って、キュアナの台詞を遮るクォルファ。その目が笑っていないことに気付いたのか、キュアナは一度背筋を凍らせた後、無理やりに笑顔を見せた。
「ママと、けっこんするぅ!」
(………自分の娘の戯言、封じやがった………)
 必死になって言い繕ったキュアナに、クォルファが優しげな微笑を浮かべる。
「そう。そうだね。結婚は、キュアナには早すぎる。その間は、ママと結婚してようか」
「クォルファッ!?」
 がばり、とシェドが起き上がった。この国では重婚は認められていないから、キュアナと結婚するということはシェドと離婚するということだ。婉曲に言われた含みにその匂いを嗅ぎ取ったのか、シェドは娘を抱いたクォルファに後ろから抱きついた。クォルファがほんの一瞬、幸せそうに笑う。
「クォルファ、離婚なんて僕は認めないから!」
「だそうだ、キュアナ。当分、結婚するのは無理そうだ」
 結局全部を否定される形になったキュアナは頬を膨らませたが、クォルファの肩越しにシェドが頬を撫でるとすぐに嬉しそうに緩ませた。クォルファが顔を捻り、シェドの頬に口付ける。幸せな家族の図に、傍で傍観していたダランは、はあ、とため息をついて踵を返した。
「ダラン、今日は助かった」
 背後から素直なクォルファの礼が聞こえてくる。ダランは首だけで振り返って何事かを言おうとして、顔に向かって飛んできたものをとっさに捕まえた。何気なくそれに視線を落としたダランは、凍りつく。
「これ………っ、おま、」
「エディア王子の脳内写真だ。ついでにやろう」
 にっこり笑う、クォルファ。ダランの手には、ウェディングドレスを着せられた───昔の、自分。
「写真というのは便利なものだな。今では合成なんてものもはやっているらしい」
 勿論、脳内で合成しなければそれは出来上がらないが。
 クォルファの一言が、ついにダランに止めを刺した。いや、ドレス姿の自分の隣に、タキシードのエディア王子とか言うのが映っていた時点でもう既に駄目になっていたが。
 魂を抜かれきったダランは、よろよろと、自分の家へと帰った。そこから三日間、彼の記憶はない。




 
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