Extra.墓は悠久の時を経て
(残酷描写があります。ご注意ください)
ファーン遺跡の門をくぐり、少し小さな入り口に足を踏み入れる。ところどころひび割れたレンガ造りの遺跡の中を、意識した歩幅できっちり十歩進むと、右手に組まれたレンガ壁の天井から三段下、止めている足のつま先と同じ位置に、レンガとレンガの隣り合う、一つの溝がある。
何の目印もないその境を三度、指を上下に往復させて辿ってから、溝に爪を引っ掛け、まるで引き戸のごとく横にスライドさせると、ごとん、とどこかで何かが動くような音がしてレンガ造りの壁が何の抵抗もなくするりとずれた。出来上がった入り口に身体を滑り込ませると同時に、背後で音が鳴り、扉が閉まる。
それを確認してから、今度はなにをするでもなく前に向かって歩いていくと、遠くに小さな光点が見えた。それに向かって近付いていけば、やがて、それが出口であることに気付くだろう。
開けた先には、青い、海を背景に、一つの墓標がある。
シルフィはそれにゆっくりと近付いて、そろりと墓標を撫でた。古い、蔦の張った墓標には、一つの名前が刻まれている。
───レインヒル=ラースガイゼン
それは、シルフィの二人目の契約者であり、また、生涯でただ一人の妻であった女の名前だった。
『………変わっていないな』
懐かしむように目を細め、シルフィはレインヒルの名前を小さな指でなぞる。古い墓標からは、月日を示すようにぱらぱらと砂が零れ落ちた。
───シルフィがファーン遺跡で唯一知っている隠れ道。そして、シルフィ以外の誰にも見つけられず、誰も来ることができないただ一つの道。それが、この墓標へと続く道だ。
『久しぶりだ、レインヒル。我が妻よ』
墓標は何も答えずに、ただそこにある。シルフィはじっと無言でその墓標を眺めていたが、不意に、その墓標の向こう側へ、背中合わせになるように座り込む。墓標の向こう側は、わずかなスペースを残して切り立った崖になっていたので、シルフィの小さな足が少しだけ放り出される形になったが、シルフィに気にした様子はなかった。
青い空を見上げて、シルフィはどこか呆然としたように言った。
『………逝って、もう、何年になる。この世界はすぐに時が過ぎるが………我にはとても、長い時間だった。ようやく、三人目の契約者だ』
緑の長い耳が、吹きぬく風を受けて気持ちよさそうにそよぐ。眩しいものを見るように目を細めながら、シルフィは青い海を見下ろしている。
『シェド=ラクシェス。幸運の『証』を持つ、魔術師だ。………貴女は………羨ましがるだろうな』
レインヒルの『証』は、光だった。何物をも照らす光。希望の、光。
現在はロイアン国と言うこの国は、今でこそ平穏を保っているが、動乱が一度もなかったと言うことはない。むしろ、魔術国家として早いうちに目覚めたロイアン国は、他国から脅威とみなされて、他よりも戦争は多いくらいだった。
レインヒルの生まれた時代は、そんな戦争の時代だった。ロイアン国自体が被害に合うことはなかったが、ロイアン国から一歩でも出れば、そこにはところせましと死体の海が広がっている、そんな時代だ。
レインヒルの光は、当然のことながら、誰もが希望の光だと思った。その思いに答えるかのように、レインヒルは優秀な魔術師だった。
王宮魔術師───当時は魔術師軍団と呼ばれていたが───の指導者として第一線で働き、数々の武功を収め、成功した。当時の王は、何度、彼女に褒美を取らせただろう。シルフィはもう、それが何度か覚えていない。それほど多くレインヒルは戦争に出、そしていつも、すさまじい戦果を挙げた。
彼女の光は希望の光。だが、その光は熱となり、時に業火となって、敵を襲った。意思ある炎はまさしく生き地獄を再現し、転がる亡骸は白き熱に骨まで溶かし尽くされ、レインヒルの背にした戦場は、いつも凄惨たるものだった。
彼女が望んでいたのは、希望たる光。しかし、それが許されなかった時代。彼女は幾度も泣いた。従魔であったシルフィにできることと言えば、その涙を風で拭ってやり、彼女の代わりに、風で敵兵を殺すこと。ただそれだけだった。
レインヒルは、世間には性別を偽っていたから、泣くのはいつも夫であるシルフィの傍でだけだった。その夫というのも、相手が従魔であることもあり、レインヒルは公には独身を貫き通したことになっている。平穏な時代になった今でも、ラースガイゼン家がシルフィを祖としていることを知っている者は、ごく少数だ。
シルフィは、現契約者であるシェドのことを思って、瞼を閉じる。平穏な時代にふさわしい、光溢れる笑顔。レインヒルに、ぜひとも紹介したいと思うのに。
『時とは、恐ろしいものだ』
ぽつりと呟いて、シルフィは墓標に小さな背中を預けた。どっしりと構えた石は、シルフィの軽い体重をいとも簡単に支えてくれる。
まだこんなにも、自分にはレインヒルを想う心が残っているのに。相手はもう、この土の下、欠片が残っているかどうかも怪しくなっている。無性に、掘り返したくなった。確かにそこにいるのだということを、確かめたくなった。もしなくなっていたら、相手がまだ生きているのではないかと期待できるような気もする。
馬鹿なことを考えてしまうのは、レインヒルに似た娘を見たからだろうか。
クォルファ=ラースガイゼン。先祖返りとでも言うのか、かの娘は驚くほど、レインヒルに似ている。そしてその父親は、レインヒルの『証』に似た気配を色濃くまとっていた。
(動揺するなという方が、無理だ)
シルフィはその姿を脳裏に思い描いて、唐突に喉を鳴らして笑った。あまりにも、おかしかった。今のラースガイゼン家は、まるでシルフィを自分達の神のように敬う。祖先だからという単純な理由だけではない、心の底からの敬意を示す態度。その理由に、シルフィは容易に思い至った。
───貴方は私の自慢の旦那様よ!
そう言って、自慢げに胸をそらすレインヒルの姿が目に浮かぶようだ。生前、レインヒルは自分の子供たちへ、ことあるごとに自慢していた。従魔の自分があまり姿を現すことができない、その穴を埋めるように、何度も、何度も。シルフィは、風に届けられたその言葉を眩しく思いながらも嬉しく聞いていた。
おそらくその言葉が、今のラースガイゼン家を作り上げたのだろう。だから、ラースガイゼン家はシルフィを祖だとする。純粋な祖としての尊敬や思慕が、時を経るごとに変化した、その結果。ロイアン国の動乱は、なにもレインヒルの時代だけではなかっただろうから、そういった時に徐々にシルフィの立場は変わっていったのだろう。
そうして、消えていく歴史の欠片。伝わらなかったレインヒルの戦い、残らなかった影の歴史は、全て、シルフィの功績として片付けられてしまっていた。この時代で、クォルファに教えられた歴史は、ほとんどが歪められたものだったのだ。
………レインヒルの記録が消えていくのは、淋しい。だが、それもまた、時の流れの一つの作用だ。
『貴女は、そんなことも見越していたんだろう』
シルフィは一抹の悔しさと共にそう呟いた。
人間の世界に、従魔であるシルフィの記録はほとんど残らない。だからおそらく、レインヒルはわざと、人間の世界にシルフィの記録が残るように事実を捻じ曲げた可能性がある。というより、時代に合わせて変化したものよりも、レインヒルが故意に捻じ曲げた部分が大半だろうとシルフィは予測をつける。おそらく、夫であったシルフィの予測は限りなく事実に近い。
『余計なところまで、受け継がれたものだ』
計算高い、娘の不敵な笑み。それを受けるのは、今はシルフィではなく、金髪の少年。
シルフィはほのかな笑みを浮かべ、最後にまた、海の青を目に焼き付けると、徐に風を呼んだ。シェドに頼んでいた、一つの四葉のクローバー。
小さな手で掴み、葉の一つにそっと口付けを落として墓前にそっと沿えると、シルフィは無言で墓標を見下ろす。
ただの石に、思い入れはない。それでも、この下に、愛しい貴女が眠っているというのならば。
『また、会いに来よう。───我が、妻よ』
ふわり、シルフィの姿が風の中へと溶けていく。
愛情を司る四葉が、風を受けて舞い上がり、墓標の上に静かに着地した。
数分後。
どこからともなく伸びた白い手が、墓標の上の四葉をそっと撫で、消えていった。
10.07.17〜11.01.21 掲載
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