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まつえじょう
松江城

登城・撮影:2005年8月

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所在地

島根県松江市殿町

築城年 慶長11年(1611年)
築城者 堀尾吉晴
別称 千鳥城
遺構 天守、附櫓、太鼓櫓(復元)、中櫓(復元)、南櫓(復元)、南多聞櫓(復興)、一の門(復興)、石垣、土塁、堀、曲輪
形式 平山城
到達度 ★★★☆☆ 松江駅からバスが通っているのであまり苦労しない筈
体力消耗度 ★★☆☆☆ 天守までゆっくりと歩いていけば、それほど辛くはない
遺構保存度 ★★★★★ 天守を始め、復元・復興櫓4棟や門など遺構が多い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天守が現存する12城のうちの一つ。現存天守の城の中では姫路城に次ぐ平面規模を有しています。また、高さでは3番目(約30m)、古さでは6番目となっています。また、最近になってから太鼓櫓中櫓南櫓の3棟が復元されました。
 松江駅からバスに乗り込んで城を目指します。市内を循環するバスがいくつかあるので、その中で城の近くに行くものを選びました。島根県庁が目の前に見える停留所で下車します。県庁を含むその他の多くの建物は三の丸に建っています。もうすでに、城の中にいるのでした。
 大手門口までは内堀に沿って歩きます。その内堀越しに、先述した3棟の櫓が石垣の上に見えます。北堀橋と並んで有名な撮影ポイントのようです。ちなみに、午後だと逆光になります。
 
大手前口を過ぎて、馬溜という場所に入ります。一般的にはここからが城内です。中櫓と太鼓櫓が高石垣の遥か上に見えます。この場所には井戸屋形と呼ばれる井戸がありました。大手門跡を通って、二の丸下の段に入ります。ここは以前は米櫓が建っていましたが、今は二の丸茶屋があるだけです。この茶屋は発掘調査の結果に御破損方寺社修理方跡(城や寺社仏閣の建物修理事務所)の礎石が確認されたので、同じ大きさの上屋を建造したものです。
 三の門跡には門らしきもの(?)があり、ここから二の丸上の段に入ります。何度か登場している復元櫓3棟、太鼓櫓・中櫓・南櫓がここに建っています。それぞれの中に無料で入ることが出来ます。南櫓のみ2層になっていて、後の2棟は平屋です。南櫓は天守の建て替え時の様子やこの3棟の櫓の復元時の様子などがビデオで放映されていました。また、内部には武具掛が再現されていました。同じ二の丸上の段には馬溜と同じような井戸屋形がありました。
 南多聞櫓の下を通って、一の門の前に出ます。いずれの建物も昭和に復興されたものですが、厳密な考証に基づいたものではありません。現在、一の門は入場券売場となっています。
 いよいよ天守が鎮座する本丸に入ります。当時は鉄砲櫓弓櫓武具櫓など多くの櫓が建っていましたが、今ではその跡だけです。天守正面の生垣を抜けて天守に入ります。内部に入ると、まずは附櫓という隣接する櫓の中にいます。まっすぐ階段を登らず、左に行くとここには井戸があります。この井戸は内堀につながっている抜け穴だとも言われています。階段を登ると、ここからが天守となります。内部にはお約束の甲冑や古文書を始め、歴代藩主の愛用品なんかもあります。最上階からは宍道湖が見渡せる他、大山が見えることもあります。
 ここで、松江城にまつわる話があります。松江城の工事が思うようにはかどらず、何度も石垣が崩れてしまいました。そこで、若くして亡くした息子の為にも早く城を完成させたい堀尾吉晴は天守予定地で毎年盆踊りを開催して、そこから娘をさらっては人柱として埋めることにしました。完成までの2年間に計3人の娘が人柱となりました。吉晴は城の完成前に病死し、その後に堀尾氏は3代で断絶しました。天守近くで盆踊りを催すと人柱の娘達が踊るように城が震えるということで、盆踊りは一切禁止されました。
 嘉永15年(1638年)、当時の城主・松平直政が天守の天狗の間に入ると、そこに美女が佇んでいます。しかし、恐ろしい形相をしているので、「何者か」と尋ねると、「この城はわらわのものぞ」と答えました。ここで、直政は「コノシロ(鮗)が欲しければ、漁師に捕らせて与えよう」というと、美女は消えました。コノシロとはニシン科の魚です。翌日の夕刻、直政の家来がコノシロを天狗の間に持参すると、美女の形相が柔和になり、魚を受け取りました。その後、美女は現れなかったそうです。美女は先述した人柱の際に埋められた女性のひとり、お鶴だろうとも伝えられています。
 帰りは塩見縄手方面に下ります。下っていく途中にある石垣は天守の後方にありますが、それは今での石垣とは違う雰囲気を醸し出しています。南側から見る天守に比べて苔むしていて暗く、緊迫感があります。以下はこの付近にあるギリギリ井戸跡についてです。城の工事は石垣が何度も崩れて思うようにはかどりませんでしたが、その際にここから槍に刺さったしゃれこうべがでてきました。そこで、祈祷して霊を鎮めてから工事を再開したところ、石垣が積み上がって完成しました。この時の井戸が深く掘られて頭の頭頂部(つむじ・ぎりぎり)に似た井戸となったことから命名されました。

 

 

 

 

 

 

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦功によって出雲・隠岐24万石を与えられた堀尾吉晴と子忠氏遠州浜松から月山富田城に入城した。月山富田城は山城で、政治的・経済的な理由から不都合な場所だった。新城築城に際し、吉晴は荒和井山を主張したが、対して忠氏は亀田山を主張した。荒和井山は大きすぎて、24万石では山に釣り合う城郭を維持するのは無理だとした。
 吉晴は忠氏に従って城地を亀田山に決定した。しかし、慶長9年(1604年)に忠氏が28歳の若さで急逝した。ある日、吉晴が止めたにもかかわらず、禁足地とされた池に忠氏が単身踏み込んで、紫色の顔になって戻ってきたといわれている。この時のことを「出雲神の御乱」という。吉晴は忌明けを待って、城地が亀田山に決定したと発表した。
 6歳で後を継いだ忠晴は祖父吉晴が後見となった。工事は慶長12年(1607年)に着工され、吉晴が指揮に当たった。5年の歳月を費やして築城されたが、本丸・二の丸が完成する慶長16年(1611年)12月の直前である同年6月に吉晴は没した。吉晴が急死したために、築城は完全に仕上げられなかったとも言われている。この工事は難航したようで、人柱の話も伝わっている。
 嘉永10年(1633年)に忠晴が没し、堀尾家は嗣子なく断絶した。代わって若狭小浜から入城した京極忠高も1代で断絶した。嘉永15年(1638年)、松平直政信州松本から18万6千石で入城し、明治維新まで松平氏が代々城主となった。3代綱近のとき三の丸が造られた。7代不昧(本名・治郷)は茶道の不昧流を大成したことで有名である。
 明治4年(1871年)に松江藩は政府に松江城の解体を願い出て、天守は180円(当時の米100俵)で落札された。しかし、松江城が消えることを惜しんだ地元有志の力添えで買い戻され、瀬戸際で危機を回避した。大正期は天守が倒壊の危険性があるほど荒廃したため、戦後に本格的な解体修理が行われて現在の姿となった。また、平成13年(2001年)に太鼓櫓・中櫓・南櫓が復元された。

松江城写真集

入城料 大人 550円
小中学生 280円
共通入館券 共通入館 松江城・小泉八雲記念館武家屋敷、その他特典付
大人 920円
小中学生 460円
開城時間 4月〜9月 8時30分〜18時30分(入城は18時まで)
10月〜3月 8時30分〜17時(入城は16時30分まで)
休城日 年中無休
交通 鉄道 JR山陰本線松江駅〜市バス一畑バス松江城大手前・県庁前下車

一畑電鉄松江しんじ湖温泉駅〜一畑バス県庁前下車、又は徒歩15分

自動車 米子自動車道米子IC〜国道9号線(又は山陰自動車道)〜県道37号線
駐車場 大手前駐車場や城山西駐車場を利用(有料、200台程度)
参考リンク 松江城(山陰唯一の天守閣)
松江市の観光
松江市役所
周辺案内

 堀川めぐり遊覧船に乗って堀を巡るのが人気です。武家屋敷小泉八雲記念館のある塩見縄手城山稲荷神社松江郷土館など興味深い施設が多いです。周辺のお城はまず月山富田城が外せません。その他には新山城白鹿城などがあります。足を伸ばすと、高瀬城三刀屋城三沢城三笠城米子城などがあります。

 

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