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ひろさきじょう
弘前城

登城・撮影:2006年8月

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所在地

青森県弘前市下白銀町

築城年 慶長5年(1600年)
築城者 津軽信枚
別称 鷹岡城、高岡城
遺構

天守、辰巳櫓、未申櫓、丑寅櫓、追手門、南大門、南内門、北門、東門、東内門、与力番所、曲輪、石垣、堀、土塁

形式 平山城
到達度 ★★★☆☆ 弘前駅から距離があるので、交通機関利用が良
体力消耗度 ★★★☆☆ 平山城なので、ひどく疲れることはあまりないだろう
遺構保存度 ★★★★★ 現存天守・櫓・門を始め、石垣・土塁・水堀が残る

 東日本唯一の現存天守は青森県弘前市にあります。弘前駅からは距離があるので、交通機関を利用して弘前城まで向かいます。自動車ならば、弘前公園周辺の駐車場に止めることになります。ただ、GWの桜の時期は混雑するので注意が必要です。それでも、一見の価値はあるとは思います。
 弘前城は三重の堀がめぐらされており、ほぼ全ての曲輪が残ります。天守はもちろん現存ですが、他にも櫓3棟、門6棟が現存です。特に、弘前の城門は、門の前面に高麗門などを設けていないことや屋根を高く配して全体を簡素な素木造りとしています。つまり、弘前の城門が全国でも古式な部類とされるものです。
 本丸には石垣が多用されています。下乗橋から見る石垣の上の天守は、よく写真で見かけます。その他の曲輪は土塁と水堀で囲まれています。現在の天守は3層ですが、以前は5層の天守が建てられていました。それは、東北でも数少ない大規模な天守でしたが、落雷で焼失しました。再建された天守は、一回り小さい現存天守です。
 天守内部は、現存の重厚感があります。後に造られた天守では、窓が史実よりも大きいことがあるのですが、ここではあまり外を見渡せません。狭間から覗く程度のことしか出来ず、城は実践設備であることを実感します。天守以外にも、城内を歩いてみれば、その貫禄が伝わってきます。

 

 

 当時、津軽は南部領だったが、群小の土豪が群雄割拠していた。この時、大浦為信(後の津軽為信)は、南部氏の内輪もめを好機として、小田原征伐中の豊臣秀吉に参陣して、津軽地方の本領安堵の朱印状を押してもらった。この時に、津軽に改姓する。南部氏は、この3日遅れで到着したのだった。
 文禄3年(1594年)、為信は堀越城に移り、城を拡張して津軽経営に乗り出そうとした。だが、堀越城は軍事上に不便であったので、高岡・鷹ヶ岡と呼ばれていた土地に築城することにした。慶長8年(1603年)には、築城が開始されたが、翌年に京都で客死してしまう。工事は一時中断となった。
 後を継いだ三男・信牧は、慶長14年(1609年)に築城を再開、幕府の許可を受けてから1年1ヶ月という短時間で完成させた。4万7千石には、身に余るほどの威容を誇る城となっている。この時に築かれた5層天守は、寛永4年(1627年)に落雷で焼失している。長らく弘前には天守が建てられなかったが、文化7年(1810年)に建てられたのが、現在の3層天守である。幕府が5層天守の建造を許可しなかったため、本丸辰巳櫓を改造して現在の姿になったと考えられている。
 津軽氏は12代に渡って津軽を領した。9代・寧親の時の表高は10万石であるが、実収入は検地で30万石、収入全体では100万石近かったという話もある。これは津軽氏の開墾の成果だった。
 弘前城は明治維新を迎え、津軽氏の藩政も終わりを告げる。明治28年(1895年)、市民に開放されて以来、桜の名所として親しまれている。

弘前城写真集
入城料

大人

300円
小中学生 100円
共通入館券 共通入館 弘前城・弘前城植物園
大人 500円
小中学生 160円
開城時間

9時〜17時

無料 毎月第2日曜日(4月〜11月)
休城日 11月24日〜3月31日
交通 鉄道 JR奥羽本線弘前駅、弘南鉄道弘南弘前駅〜弘南バス市役所前下車
自動車 東北自動車道大鰐弘前IC〜国道7号線
駐車場 追手門広場・弘前文化センター駐車場などを利用(有料、200台程度)
参考リンク

弘前のさくら祭り案内

弘前観光コンペンション協会
弘前市役所
周辺案内

 弘前藩主の霊屋がある長勝寺や城下町の風情が残る仲町伝統的建造物群保存地区(城の北側)は見ておきたいです。周辺のお城は大浦城堀越城黒石城浪岡城などがあります。足を伸ばすと三戸城根城九戸城などがあります。

 

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