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東海地方 |
東海地方の訪城数:16城
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静岡県 |
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浜松城(浜松市元城町) 今川氏滅亡後、遠江を平定した徳川家康は、元亀元年(1570年)に引馬城に入り、新城の築城に着手した。家康は信長の対朝倉戦に従軍するなど多忙だったが、同年9月には完成し、浜松と改名した。元亀3年(1572年)には、武田軍の侵攻に遭い、家康は三方ヶ原から浜松城に逃げ込んだ。この時に「空城の計」を用いて、武田軍を欺いたという。家康が駿府に移った後は、菅沼定政・堀尾吉晴らが入城した。 ←浜松城天守 |
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駿府城(静岡市葵区城内) 室町時代には、駿河守護今川氏の居館があった。今川氏の滅亡後は、徳川家康が天正13年(1585年)より築城を開始して、浜松城から居城を移した。家康は、豊臣秀吉の命で関東に入部した後に幕府を開く。そして、将軍職を譲り、自身は駿府城で大御所政治を行った。この時に、隠居城として大改修が加えられている。当時建てられた5層の天守は、火災で焼失している。 ←駿府城巽櫓 |
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掛川城(掛川市掛川) |
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愛知県 |
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長篠城(新城市長篠市場) 永正5年(1508年)に菅沼元成が築城したと伝えられている。元亀2年(1571年)には、武田氏に落とされ、属城となった。だが、天正元年(1573年)には、徳川家康が奪還し、大改修を加えた。武田軍の再攻に備えるため、奥平信昌を城に置いた。天正3年(1575年)、武田勝頼は大軍で長篠城に来攻した。落城寸前にまでなったが、織田・徳川連合軍が来援、長篠合戦となった。 ←長篠城本丸 |
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田原城(田原市巴江) 文明12年(1480年)、渥美半島に勢力を誇った戸田宗光が築城した。吉田城主の牧野古白と争い、今川氏親と共に城を攻めた。だが、今川氏の人質だった竹千代を駿河に送る際、4代・宗光と5代・堯光は奪い、尾張の織田信秀に渡した。この事で、今川氏に攻められ、戸田氏は滅亡した。後に本多氏が入城し、幕末には渡辺崋山が生まれた。 ←田原城二ノ丸櫓 |
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吉田城(豊橋市今端町) 永正2年(1505年)、豊川市北部に勢力を張っていた一色城主・牧野古白が築城した。以来、東三河の要衝として、今川・徳川・武田らの戦国武将が攻防を繰り返した。天正18年(1590年)、池田輝政が15万2千石で入封し、城の拡張と城下町の整備が行われた。輝政は在城10年で播磨姫路に移封となり、以後は城主が目まぐるしく代わった。 ←吉田城鉄櫓 |
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大草城(知多市大草) 本能寺で織田信長が明智光秀によって討たれた後、織田信雄が尾張・北伊勢を領した。これに伴い、織田長益(有楽斎)は知多郡に所領を与えられていたので、大草城を築城した。以前の大野城は、水利の悪さから廃城になった。小牧・長久手の戦いの後、長益は所領を摂津へ移され、大草城は廃城となった。しかし、廃城後も主城として重要視され、江戸時代には城跡が保存された。 ←大草城水堀 |
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大野城(常滑市金山字桜谷) 築城年代は不明だが、大野氏や一色氏が居城した。その後、佐治宗貞が入城して3万石を領した。以後は、佐治氏が4代に渡って居城した。天正10年(1582年)の本能寺の変の際、織田信長が討たれた後も羽柴秀吉に従わず、徳川家康に従ったので、小牧・長久手の戦いの後に改易となった。佐治氏の後は、織田長益が城主となった。長益は大草城を築城して移り、大野城は廃城となった。 ←大野城模擬天守 |
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名古屋城(名古屋市中区本丸) 室町時代は那古野城と言い、今川氏の支城だった。織田信秀によって攻略され、その子・信長が清洲城に移った後に、一時廃城となる。慶長15年(1615年)に、徳川家康は大坂城の豊臣秀頼を牽制するために、9男・義直を尾張53万石に封じ、廃城となっていた那古野城の大改修を命じた。諸大名を動員する天下普請によって完成した、御三家の居城となった。 ←名古屋城天守 |
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末森城(名古屋市千種区城山町) 織田信秀が、天文17年(1548年)に東山丘陵の東端に築城した城である。守山城と連携して、今川氏に対する最前線の城だった。信秀死亡後は、子・信行が城主となる。だが、信行は信長への謀反の罪で、弘治3年(1557年)に殺害された。現在は本丸が城山八幡宮となっている。 ←末森城空堀 |
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松平城(豊田市松平町三斗蒔) 応永年間(1394-1428年)、初代・松平親氏によって松平氏館の詰めの城として築かれた。3代・信光は、三河平野の岩津城に移ったので、松平郷は親氏の庶長子信広が相続した。この松平郷松平家は、松平太郎左衛門家とも言われ、明治まで旗本交代寄合として15代続いた。松平城は、永禄から天正にかけて一部を改修したが、文禄年間に廃城となった。 ←松平城址碑 |
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松平氏館(豊田市松平町赤原) 松平氏館は在原信盛によって築かれた。信盛の子・松平信重は、娘婿に徳阿弥という僧を迎えた。この僧は、松平親氏となり、徳川家康の祖先となった。松平太郎左衛門家は松平郷に明治まで在住した。現在残る石垣や水堀は、松平太郎左衛門家9代・尚栄によって関が原の合戦後に築かれたものである。 ←松平神社石垣 |
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中垣内古屋敷(豊田市中垣内町西ノ平) 詳細は不明である。ただ、武田家の落人、小幡氏の子孫に当たる宇野安左衛門の屋敷跡ではないかと言われている。 ←中垣内古屋敷石垣 |
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大給城(豊田市大内町城下) 築城年代は定かではないが、長坂新左衛門が居城していた。松平氏の4代・親忠が、大給城の長坂氏を追い、二男・乗元を城主とした。大給松平家の祖となり、代々居城し続ける。一度、落城を経験し、大給松平家は徳川家康の関東移封に従った。上野国那波を領したので、城は廃城となった。 ←大給城土塁 |
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市場城(豊田市市場町城)旧小原村 文亀2年(1502年)、飯盛山城主の鈴木氏の一族、鈴木(後の鱸氏)親信が城を築き、市場古城より城を移した。鱸氏は4代居城した。4代・重愛の時に、戦功があったので、徳川家康から加増され、城が改修された。しかし、重愛は家康の関東移封に従わず、豊臣秀吉の命にも秀吉にも従わなかったので、取り潰しとなった。 ←市場城空堀 |
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岐阜県 |
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苗木城(中津川市苗木) 建武年間(1334〜1338年)に遠山景村が築いたとされる。以後の100年間は代々遠山氏の居城となった。本能寺の変後、羽柴秀吉派の森長可によって落城したが、慶長5年(1600年)には旧領復帰がかなった。以後、12代270年間に渡って遠山氏の支配が続くことになった。 ←苗木城石垣 |
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岩村城(恵那市岩村町城山) |
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郡上八幡城(郡上市八幡町柳町) 永禄2年(1599年)、遠藤盛数によって八幡山の山頂に築かれた。遠藤氏は、賤ヶ岳の戦いで、盛数の子・慶隆が柴田勝家に呼応したため、城主から下ろされた。その後、稲葉貞通が入城し、今日見られる石垣を築いた。西軍に属した稲葉氏の郡上八幡城を攻撃した遠藤氏は、功績が認められ、旧領へ復帰した。遠藤氏は5代で途絶え、井上氏・金森氏・青山氏が入った。 ←郡上八幡城天守 |
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